東日本大震災から今日で10年
あれからもう10年という気もするし、まだ10年という気もします。
私自身、大した被害を受けずに済んだ1人ではありますが、
3.11はあまりにも衝撃的で、今でもその当時を鮮明に思い出すことができます。
震災が起きたのは10年前の3月11日、14時46分。
当時私は外部セミナーに出席後、(惨事が起きたあの)九段会館そばの喫茶店で1人遅めのランチを取っていました。
午後半休を取り、食事のあとは表参道の美容院に行く予定でした。
会計を済ませ、店員さんが「ありがとうございました」と店のドアを開こうとした時です。
地響きが鳴り始めたかと思うと、床から突き上げるようなドーンっ!という音と共に激しい揺れが始まりました。
店内は悲鳴で溢れ、店員さんも「すぐに外に避難してください!」と悲鳴に負けぬ大声で客に呼びかけました。
店を出ると、外を歩く人たちもパニック状態でした。
すぐに会社に戻らなければと思い、地下鉄に乗ろうと駅前の交差点を渡りました。
ですが、その先で偶然タクシーが赤信号で止まったため、私は条件反射的にタクシーに飛び乗りました。
走り始めてからの光景は、思い出すだけでゾッとします。
道路脇にそびえ立つビルが振り子のように揺れ、平らであるはずの道路はおぞましく波打っていました。
まるでSF映画を見ているかのようでした。
体感もアップダウン激しく、4DWでデコボコ道に揺られながら走っているような感覚でした。
ただごとではない地震が起きている。
東京でこれだけなのだから、震源地はどんなことになっているのか。
携帯通話はできない状態でしたが、Twitterのタイムラインが生きており、何が起きたのか情報を追いました。
東北で大地震が起きたことを知り、恐怖を覚えながらも15分ほどで無事会社に戻れました。
後から考えても、あの時とっさにタクシーに乗る選択をしたことは幸いでした。
地下鉄に向かっていたら、移動手段も連絡手段も断たれ、1人途方に暮れていたと思います。
会社に戻ると、TVで流れる映像に皆が釘付け状態でした。
中には、余震に怯えてずっと机の下に潜ったままの人もいました。
明らかに非常事態でした。
普段はオフィスワーカー私が外出からの午後半休とあって、
上司は安否確認で何度も連絡を取ってくれていたようですが、やはり電波はつながらなかったそうです。
部署の皆さんから心配したと声をかけていただき、会社に戻るという選択もまた正しい判断だったと思えました。
交通機関は完全に麻痺しており、遠い自宅まで徒歩で帰るか、会社に待機するか悩んでいると、
会社の近くに住んでいる同僚の友人から突然メールが届きました。
「1人だと怖いからうちに来ない?5分後に迎えに行く」
電車通勤で交通手段が断たれた私にとって、思わぬありがたい提案でした。
会社に戻って、PCを開いていたからこそできたやりとりでした。
会社を出て15分程度歩くと友人宅に着きました。
大きな被害はなかったものの、断水していました。
隣にビジネスホテルがあったので、ダメもとでトイレを借りに行くと快く受け入れてくださいました。
夜は当然眠れるはずもなく、ただTVから流れるこの世とは思えない惨事に目を奪われ、余震に怯えて過ごしました。
的確な行動判断、連絡手段の確保、素早い情報収集、人とのつながりの重要性を痛感した1日でした。
また、情報収集については、震災後も通常稼働していたTwitterの素晴らしさを実感しました。
翌朝、私の乗る電車が運行を再開したとのニュースが入り、友人宅をあとにして自宅へ戻りました。
それなりの被害を想像しながらドアを開けると、拍子抜けするほど普段と何ら変わりのない風景でした。
比較的被害の少ないエリアだったこと、一軒家で借り住まいしていたことが幸いしたのでしょうか。
いろいろな面で、護られたとしか言いようのない状況でした。
ようやく電波も通じるようになり、家族や友人らとも安否確認のやり取りができるようになりました。
当時友人の1人だった旦那さんからも、安否の連絡が届きました。
彼は出張先で被災したらしく、食事もトイレもままならず、帰宅するのに2日以上かかったと言っていました。
部屋もPCや本棚が倒れてそこそこの被害があったようですが、私が友人宅に避難し、部屋も何1つ変化がなかったことを伝えると、「日頃の行いがよい結果だな」と言われたのを覚えています。
無傷だったことは運がよかったとしか言いようがありませんが、日々の心がけや関係構築もやはり大切だと感じます。
もう1つ、当時友人だった旦那さんが私に安否連絡をくれたことは、その後の関係進展に多少なりとも影響があったと感じています(この点については、別途深堀りして記事にする予定です)。
私の周囲では唯一、福島の実家に帰省していた友人と連絡が取れず心配でたまりませんでしたが、3日後くらいに無事が確認され安堵しました。
そして、被災地の様子、安否不明者の急増、原発汚染など、被害状況が次々に明るみになるにつけ、
無事な自分と無力な自分を申し訳なく感じる気持ちも生まれました。
東京住まいのしがないOLの私にできることなど、想像もできませんでした。
そんな中、会社が復興支援の取り組みをスタートしました。
私はその中の一員として復興支援に協力していくことで、精神的に救われたような気がしています。
復興支援で女川へ
私は翌年、宮城県の女川に向かいました。
目的は復興支援です。
でも、自分1人行ったところで何ができるとも思っていませんでした。
ただ、日々メディアで報道される復興状況を見てなんとなく知った気になっていくと同時に、
被災地(特に原発近辺)は危険だから近づいてはいけないというネガティブイメージが増殖し、
一方で被災地から遠い自分の生活には日々安堵感が増して他人事のような気持ちになっていくのを感じていました。
だから、この目で被災地を見て、被災地の現状を知り、被災地の人たちと話し、被災地に何が必要なのか、自分にできることは何か、自分なりに考えたかったというのが正直な動機です。
現地に入った私は、少なからぬショックを受け、言葉を失いました。
震災から1年以上が経って、復興作業は進展しているという先入観がありました。
しかし、目の前に広がる景色は、何もない、ただの「さら地」でした。
「何もない」ことに衝撃を受けました。
震災前は、たくさんの建物や船で賑わっていたであろう場所なのに、何もない。
その全てをさらっていった津波の威力に改めて恐怖を感じました。
車で進むと、まるごとひっくり返った建物が、まるで置き去りにされたレゴブロックのように放置されていました。
この建物と周辺の殺風景な景色のコントラストは、被害の大きさを語るに十分な象徴でした。
「復興なんてまったく進んでいない、ただのさら地じゃないか」
そう感じたのも束の間、次に注意を引いたのは、道路脇やさら地の奥に積み上げられた瓦礫の山々でした。
私は、自分を恥じました。
地震と津波で何もかもが破壊されて流されてさら地になったんじゃない。
破壊された残骸がそこら中にひしめいていたはずで、廃棄も追いつかないほどの残骸を地道に拾い集め、地面を整備するまでに1年以上の時間がかかった。
1年以上の月日を何もしていなかったからさら地なのではなく、さら地にするまでにもそれほどの時間がかかるほど甚大な被害であったということに気づかされたのです。
震災直後のニュースで、駅が跡形もなくなり、津波に流された電車の車両が丸々横たわっているのも見ていました。
その電車も瓦礫もきれいになくなっていたことを思えば、ここまで至るにも途方もない作業だったに違いありません。
続いて、港を見渡せる、高台の病院に足を運びました。
女川港では、17.6mもの高さの津波が押し寄せました。
この高台にいれば安全、と思えるような立地に思えますが、1階の柱に遺された津波の記録によると、ここからさらに1.95mの高さまで津波が押し寄せたといいます。
絶望的な高さです。
この現実に、どう向き合えばいいのかもわからず、呆然と港を眺めました。
詳細は割愛しますが、この日は自分なりに復興支援のボランティア活動を進めました。
一通りの活動を終えた後、
とある被災者の高齢男性が
「コーヒー飲みに来な」
と、仮設住宅に招いてくださいました。
同行したボランティアスタッフの方曰く、被災者の方が家に招いてくれることは初めてのことだそうです。
手狭い仮設住宅にお邪魔すると、男性は黙々と用意を始めました。
生クリームとシナモンがトッピングされたネスプレッソコーヒーとハラダのラスクという、被災地であることを一瞬忘れてしまうような、洒落た紳士なおもてなしです。
漁師としてこの町で暮らし、御年84歳。
家はもちろんのこと、奥様を津波で亡くされていました。
こちらを気遣ってか、常に明るくふるまっておられましたが、当時の様子について語り始めると時折言葉に詰まり、現実をいまだ消化できずに日々生きていらっしゃることが沈黙から伝わってきました。
「その場にとどまっていれば助かったのに、ヘルパーやってたもんだから、患者さんが心配だっていって外に出て行っちゃったんだな」
「それが最後。まだ見つかってない」
「俺は危ないからやめとけって言ったんだよ」
「もう少し、強く止めておけばこんなことにはならなかった」
自分は何ができるわけでもなかったけれども、
やはり足を運んで自分の目で見て聞くという体験は貴重そのものでした。
連日の報道で心の底に澱のようにたまっていた被災地への差別意識も払拭できたし、
自分なりに感じ取った被災者の方々からのメッセ―ジや課題、
自分はどういったスタンスでこの震災を受けとめ生きていくのか、
報告書にまとめて提案するまでが自分にできたささいな行動でした。
あれから10年。
あの男性は元気に過ごしておられるだろうか。
そんなことを思い出しながら、14時46分を迎えます。